☆ミぶどうちゃんのブログ☆彡ぶどうが獲れる柏原にいらっしゃい!

ぶどうの出店は、6月の予定です。ぶどう狩りは、8月に再開の予定です。来年もよろしくお願いします。

キリスト教

キリスト教のクリスマス伝道礼拝

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。この言葉は初めに神とともにあった。この言葉にいのちがあった。そして、このいのちは人の光であった。(ヨハネによる福音書 1章1、2、4) 日本を含むキリスト教会がクリスマス向けの伝道礼拝で、マルコによ…

クリスマス礼拝に因んだメッセージ

私の切なる願いは、ローマにいるあなた方に福音をのべ伝えることです。私は福音を恥と思わない。それは、ユダヤびとであれギリシャびとであれすべて信ずる方に教えを得る神の力です。 神の義は、神の福音の中に示され、信仰に始まり信仰に至る。これは信仰に…

クリスチャンの初歩向けのテキスト本

私は、この間セブンアンドワイで二つの信仰生活が短いクリスチャン向けの本を注文しました。私は、1998年に日本キリスト教会所属の教会でクリスチャンになり、単立の教会に移りました。 しかし、私は、①教会生活の中で長年にわたるクリスチャンホームの…

地の塩、躓きの石

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあな…

コリント人への第一の手紙1章18節から25節 十字架のメッセージを意味すること

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者は…

キリスト者として生きるための栄養

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、…

キリストの忍耐と愛

神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。 ローマ人へ…

見える世界と見えざる世界の隔たり

生かされている私たちは、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。 .こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。 .「わたしは信じた。…

クリスチャンのピンチからチャンスへ

時がたって、クシュ人ゼラフが、百万の軍勢と三百台の戦車を率いて、彼らに向かって出陣し、マレシャにまで寄せて来た。 そこで、アサは彼に対抗して出陣し、マレシャにあるツェファテの谷で戦いの備えをした。 アサはその神、主に叫び求めて言った。「主よ…

終末を唱える人々からの解放

イエスが言われた、「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことは…

イエス キリストのこの世の人への生かし

私たちは、四方から患難を受けても窮しない。途方に暮れても行き詰らない。迫害にあっても見捨てない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に受けている。それは、またイエスの命がこの身に現れるためである。この世に生きている者は、イエスのた…

イエス キリストの誕生とそのパートナーな不遇

イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのこと…

教会のクリスマス礼拝

今年のクリスマス礼拝は、みんなの様々な意見が出ています。つまり身の丈に合った礼拝がベストになろうとしています。 クリスマス礼拝の日が祝祭日になると、殆どのクリスチャンが家の用事や仕事を放り出して成功に励むと考えられます。私は、家の用事や仕事…

サレバテのやもめと預言者エリヤ

しかし、国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。その時、主の言葉が彼に臨んで言った、 「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。 そこで彼は立ってザレパテへ…

地の塩と世の光

あなた方は地の塩です。しかし,塩がその風味を失うなら,何によって塩づけられるだろう。もはや何の役にも立たず,外に投げ出されて人々の足の下で踏みつけられるだけです。 あなた方は世の光です。丘の上にある町は隠れることができない。 あなた方はとも…

世の中の暗黒の中の神の言葉、光、命

はじめに言葉があり,言葉は神と共にあり,言葉は神であった。この言葉ははじめに神と共にあった。すべての物は彼を通して造られた。造られた物で,彼によらずに造られた物はなかった。彼の内には命があり,命は人の光であった。 光は闇の中で輝くが,闇はそ…

クリスチャンホームと言う名の世襲からの改革

私が最初洗礼を受けた教会は、日本キリスト教会の系統でした。この教会は、長老派と言う教派に入ります。この教会は、設立当初のクリスチャンホームの人たちが中心に運営しています。私は、クリスチャンホームの中で人生や信仰生活を送っていないので、かな…

礼拝のあとの食事と交わり

私が通っている教会は、礼拝のあとの食事の様子が変わっています。以前の食事は、ピビンバと味噌汁でした。夏場からすき家の牛丼の持ち帰りが主流になりました。教会の役員たちが、少しずつ他の教会に移っているために、昼御飯の内容を変えたのです。 知り合…

アブラハムと神との契約

神は、アブラムに土地と数えきれないほどの子孫を与えると繰り返し約束されました。この約束は、神とアブラムの間で荘厳な契約という形をとります。主はアブラムに現われて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりな…

頑ななユダヤ人とギリシャ人とのわだかまり

祭で礼拝をするために上ってきた人々のうちに、数人のギリシャ人がいた。彼らはガリラヤのベッサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレ…

み言葉の調味具合

それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」 そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。…

身近な教会に集うリーダーの役目

あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。 長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさを…

人々の解放とキリストの教の真の改革を

私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのはすなわち、わたしにしたのである。 マタイ福音書25章40節 貧しい人々に福音を告げ知らせ、捕らわれている人を解放し、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、抑圧されている人を自由にし、主の恵みの…

真実な方

私たちは真実でなくとも、キリストは常に真実である。(テモテ人への第2の手紙1章13節) 私はキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。(ローマ人への手紙9章1節) 真実の神によって祝福され、互いに真実を語り合えよ。城門では真実と…

安息日の本当の意味

安息日を心に刻み、これを聖別せよ。6日の間働いてすべてのあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるのでいかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6…

神から与えられた究極の選択

あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。 この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕…

神の言葉と人の形

初めに言葉があった。言葉は、神と共にあった。言葉は、神であった。この言葉は、初めに神と共になった。すべてのものは、これによってできた。できた言葉のうち一つとしてこれに拠らないものはなかった。この言葉に命があった。そして、この命は人の光であ…

祈りとクリスチャンの交わりの意義

私は、祈りの時にあなたを覚えて、いつも私の神に感謝している。それは、主イエスに対し、また、すべての聖徒に対するあなたの愛と信仰とについて、聞いているからである。 どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、私たちの間でキリストのためになされて…

様々な賛美と感謝

主を誉め讃えよ。 その聖所で神を誉め讃えよ。 その力のあらわれる大空で主を誉め讃えよ。 その大能の働きのゆえに主を誉め讃えよ。 その優れて大いなることゆえに主を誉め讃えよ。 (詩篇150篇1節から2篇) 今週の日曜日の礼拝は、イースター記念迎え…

礼拝のマンネリ化

私は、礼拝が形式的ないしマンネリ化に陥っていると感じています。礼拝は、クリスチャンにとって呼吸と栄養を取り入れる場なのです。その礼拝が、空気の澱みや栄養の偏りに気づいていません。 クリスチャンのとっての呼吸と空気が、祈りと聖書の言葉なのです…