初めに言葉があった。言葉は、神と共にあった。言葉は、神であった。この言葉は、初めに神と共になった。すべてのものは、これによってできた。できた言葉のうち一つとしてこれに拠らないものはなかった。この言葉に命があった。そして、この命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。
この福音書の箇所は、神の言葉が、単なる伝道の方便でなく人の口から通して生きた言葉です。牧師が、日曜日の礼拝の説教を通してイエスキリストの死から復活までの生涯を語っているのです。神の言葉は、地球の地や川、海の創造をした証言なのです。イエス キリストは、この地の創造から人間の罪を裁くために十字架につけられて、その弟子たちを自分の生涯とこの地の人間の罪からの解放された世界のビジョンを提示しているのです。
私は、礼拝に出てみると①出席者の疲れた表情や②説教の内容に関心がないための居眠り、③交わりの無味乾燥が最近の日本のキリストの教会に現れています。これは、出席者の言葉の捉え方や牧師の説教の内容の練り上げ方が問題になっていると感じます。