祭で礼拝をするために上ってきた人々のうちに、数人のギリシャ人がいた。彼らはガリラヤのベッサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。
すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦がちに落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人は父を重んじて下さるであろう。」
ギリシャ人が、モーセ王によるエジプトから脱出を記念した過ぎ越しの祭りに集っていた頃、ユダヤ人の頑なさに疑問を持っていました。この人たちがイエスの弟子のピリポとアンデレを通じてイエスに信仰について問いました。イエスは、自身の十字架での死について、一粒の麦が地中に埋め込めれることを例えました。この例えは、肉の自分を愛することが生かされず、肉の自分を悔いることが救いをもたらすこと、イエス自身への使いが栄光を受けられることなのです。
教会での礼拝や家庭での祈祷が、一粒の麦のようにイエス キリストの死から復活し自分自身の罪を悔いること、自分たちからみて異邦人と見られる人々への招きを迎え入れることで開かれた教会へと成長できることを願っています。