生かされている私たちは、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。 .こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。
.「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。そして私たちは霊を通じて語るのである。 .それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。
.すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。.だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。.なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
.わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
コリント人への第2の手紙第4章11節から18節
日本のキリスト教は、異端の広がりや他の宗教への改宗で困難を迎えています。それは、クリスチャンホーム内の子どもたちが世の動きや未信者の兄弟姉妹の付き合いで教会から離れることからきています。離れる原因は、①聖書の言葉を生きたメッセージとして捉えられないこと、②改宗変えの動き毅然とした態度にのぞめない、③礼拝を含めた信仰生活が日常生活の一つになっていないことです。
クリスチャンの困難は、イエス キリストの十字架に張り付けたれて死んでいったことに比べて小さいことなのです。クリスチャンは、神中心の信仰生活に目覚めて肉中心の世の誘惑から解放されるのです。