☆ミぶどうちゃんのブログ☆彡ぶどうが獲れる柏原にいらっしゃい!

ぶどうの出店は、6月の予定です。ぶどう狩りは、8月に再開の予定です。来年もよろしくお願いします。

コリント人への第一の手紙の13章1節から13節

 例えわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。例えまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。例えまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この3つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
 この箇所は、パウロがコリントでの教会で神への愛について書かれた手紙からです。パウロは、神が人々の自分中心や驕り、高ぶりなどの人間の罪から救い出すために身代わりになって十字架に付けられて死んでいくほどの究極の愛に満ち溢れていることを説いているのです。
 人々が神のみ言葉を幼子のように正直に受け入れるには、神への信仰と御言葉への希望を深く身に着けるだけでなく、神への愛を受け入れることなのです。神への愛は、聖書でのメッセージと祈りで人生にとっての最高のパートナーとしての体験ができるのです。
 人間同士の愛は、お互いが熱心なときはいいのですが、熱心がなくなった時に冷めてしまうのです。パートナー同士が、神への愛を受け入れればパートナーの絆を一層強められることになるでしょう。