☆ミぶどうちゃんのブログ☆彡ぶどうが獲れる柏原にいらっしゃい!

ぶどうの出店は、6月の予定です。ぶどう狩りは、8月に再開の予定です。来年もよろしくお願いします。

ヨハネ福音書15章1節から8節

 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。わたしについている枝で、実を結ばないものはみな、父がこれを取り除く。実を結ぶ枝はみな、さらに多くの実を結ばせるために、父がこれを手入れされる。わたしがあなたたちに語った言葉によって、あなたたちはすでに清いのだ。わたしの内にとどまっていなさい。そうすれば、わたしもあなたたちの内にとどまる。枝はぶどうの木の内にとどまっていなければ、自分から実と結ぶことはできないように、あなたたちもわたしの内にとどまっていなければ、実を結ぶことはできない。わたしがぶどうの木であり、あなたたちは枝である。わたしの内にとどまる者は、わたしもその人の内にとどまっていて、多くの実を結ぶのである。もしわたしの内にとどまっていない人があれば、その人は枝のように外に投げ出されて枯れ、集められ、火に投げ入れられて燃やされてしまう。あなたたちがわたしの内にとどまり、わたしの言葉があなたたちの内にとどまっているならば、望むものは何でも求めなさい。そうすれば、あなたたちになされることになる。このことによってわたしの父は栄光をお受けになり、あなたたちは多くの実を結び、わたしの弟子となるのである
 ぶどうの木の例えは、イエスキリストと弟子の結びつきを明らかにしています。父は、人々を作った神です。神が、イエスキリストに愛を語り、弟子が、イエスキリストの愛を人々に伝える人です。
 ぶどうと言うのは、常に手入れをしないと実が育たないのです。牧師は、イエスキリストの愛の言葉を教会に集うクリスチャンに伝えて生き生きとした生き方を伝えるのです。
 しかし、牧師やその取り巻きの役員が、クリスチャンに神への愛を伝えるより悪魔への断ち切りを誘うメッセージや日常生活から切り離されたリバイバル論に傾くと、「甘くておいしいぶどう」から「酸っぱい、腐ったぶどう」に変わってしまいます。
 キリストの教会がイエスキリストと神、クリスチャンの調和の取れた信仰生活を送れるように、祈っていこうでは、ないでしょうか。